『懺悔の言葉』神への贖い

自由を否定し、自由を奪い、自由から目を背ける者は、何れ、自由によって裁かれる。個人を否定し、個人の自立を奪い、個人の権利から目を背ける者は、何れ、個人によって裁かれる。真実を否定し、真実を隠蔽し、真実から眼を背ける者は、何れ真実によって裁かれる。それらに対して、沈黙する人々もまた同罪である。 No Justice ! No peace ! 正義とは 「善に基づいた行動、良心に従った発言」 自由とは 「自分を愛するように貴方の隣人を愛する事」 『主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている』【箴言 第15章 第03節】

真実を追求します。それは宗教や信仰ではなく、科学的、倫理的、哲学的根拠で求める事です。自分を愛するように貴方の隣人を愛しなさい。

フィラデルフィア

また見てしまった。トム・ハンクス、デンゼル・ワシントンの「フィラデルフィア」。聖書に男色は死罪だと書いてある。多くは語れない。ただ、エイズだからと言って職を解雇することは違法である。
私はこの映画に「愛」を感じる。



愛が何かと分かる時がある
その時、僕の心は落ち着く
世界中に友達がいる友達がいた
子供の頃に 何も隠さない頃に
兄弟愛の街 ふるさとの街よ
見捨てないで 独りにしないでくれ
誰かが僕の名を呼びかけて
僕に言う 愛を恥じる事はないと
兄弟愛の街 兄弟愛

愛が何かと分かる時がある
その時僕の心は落ち着く 永遠に

結局

テレワークや在宅勤務で時間的な余裕ができて、色々やるべきこと、できる事があったのだが、仕事をするわけでもなく、したとしても全く無意味な行為で何の利益も出さない行動。そしてただただ無駄な時間を垂れ流して、腐った快楽に浸っていただけなのだ!いくら、私は真面目に生きている!誰にも迷惑をかけていない!私は正しい!と声高に叫んでも、所詮は偽善者なのだ!私は不真面目で、主に背き、不正を行っている。私の主張は全て偽善なのだ!主はそれを見抜かれている、そして裁かれる。ただ、私は祈ることだけは忘れなかった。主よ、私の祈りだけは真実であり、正義であり、懺悔であると知ってください。

懺悔

私は私の罪の中での快楽で満足なのです。私の罪は永遠に贖われません。なせなら私がその罪を切望し、サタンへの堕落を受け入れているからです。故に私の罪は私から逃れる事が出来ないのです。ならば、神よ!その罪の中でわたしをお許しください。その快楽の中でサタンと共に投獄してください。私の罪をサタンと共に封印してください。それが私が生まれてきた罪の贖いです。
『知恵のない者はむなしい知識を持ってしか答えない。東風によってその腹を満たすだけだ。知恵のない者は無益な言葉を使って論じ、役に立たない論法で論じるだけである。』

私の中の腐敗

『私は今でも愚か者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意と妬みの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎しみ合う者である』
私の情欲と快楽は致命的に私の精神を脅かし、その悪はサタンを誘う。
私は誰なのだ?私は生まれてきた良かったのか?生きていて良いのか?私の快楽を求める情欲は底知れず、それは、完全に神(聖書)に背く行為なのだ!私の貪欲なまでの情欲と快楽を求める本能こそが私の精神を腐敗させ、堕落させている。

私の快楽

聖書に基づいて生きていくことは可能か?私は好色であり、貪欲であり、傲慢であり、無知である。故に聖書に従う願望を持っている。聖書は生きる道筋をあたえるがその道筋に従うか、従わないかは、私のその願望が私を善に導くか?悪に導くかを選ぶ。私には解らない。私のこの願望が神の導きであるなら、その願望が善か?悪か?ではなく、ただただ神の導きに従えばよいのだ。しかし、私の願望と神の導きは同一なのか?いや、私の願望と神の導きが同一であるはずがない。もし同一なら私はここので苦悩する必要がないのだから・・・・。しかし、聖書には示されている。
『求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ』
【ヤコブの手紙 第4章 第3節】

私は私のうちに邪悪な快楽が存在し、そしてその快楽は、神の裁きを受ける。

【ローマ人への手紙 第7章 第15-25】

『私には自分がしている事が解りません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています。もし私が自分でしたくない事をしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私の体の中には異なった律法が合って、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、体の中にある罪の律法の虜にしているのを見いだすのです。
私はほんとうにみじめな人間です。だれかこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか?

私たちの主イエス・キリストゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に使え、肉では罪の律法に仕えているのです』

許されざる者

私には聖書を信仰する資格がないのです。私が聖書にどんなに叫んでも、祈っても私の罪が聖書を信仰する資格を決して与えません。それは聖書に記してある主の裁きなのです。しかし、私は切望しています。私の魂が聖書を切望しながら、聖書に疑問を抱き、また否定するという矛盾を起こし、聖書を信仰する資格をその罪によって自ら放棄していながら熱望しているのです。私の傲慢や偽証、好色や猜疑心は尽きる事がありません。私はそれを罪と知りながら、その罪を犯し続けているのです。その罪は聖書を信仰することを決して許さないのです。『お前は何度となく懺悔を繰り返し、何度となく罪を繰り返す。お前の偽善は聞き飽きた。神はお前の罪を決して許さず、決して裁かない。なぜならお前の罪は裁きの場さえも汚す罪だからだ』アーメン

省みない未来

過去を変えることはできないが、過去を反省しない限り、未来は絶対に変えることはできない。

日本人は滅ぶ

美を理解していない民族はその価値を金銭でしか判断できない。女性の価値をその表面だでしか判断できない様に・・・・。演歌やねぶたを見れば一目瞭然だ!そこには芸術性の欠片もない。哀れで惨めな滅びゆく民族、日本人。

My sin

I apologize to the whole world for being born as a Japanese who doesn't know what is right and what is beautiful.
I shouldn't have been born. My falsehood, perjury, arrogance and disdain grieve the right person. I have done a lot of cheating. And that many injustices cannot be redeemed for the rest of my life. I apologize for being born as a Japanese in Japan.
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